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2024/11/21 ヘンシウ 仕分け: ▲ トラックバックユ・ア・レル
ええ加減にしてください これ以上、記事とまったく関係のないコメント(単に僕に対する挑発、悪口など)を許し続ける自信はありません!!! あんたがたがどう思おうと、ここは僕のブログ! そして記事のコメント欄は、「感想」とあるように、記事に対する感想のためにあるもんです! そこに、「○○の勝負はどないなったんや」やの、「お前の音楽はどうのこうの」やの、はたまた前の記事のコメント欄での議論を持ち込んだりやの・・・ そういうためにあるんとちゃうんです!今後は厳しく対処します 僕個人へいいたいことあるんやったら、ファンスレでやってくれ! 宣言します 今後、記事と関係の無いコメントはばんばん消していきます そしてそれを明らかに故意に続けるようなら、その人は規制します! マナーのろくになってへんやつが、えらそうに礼儀をといとるのをみて、かちんときたんでゆうときます。 あんたらは最低限のルールを守れ! さて、気を取り直してオカルト板の夏祭りの告知です! その名も、怪談百物語2011! これはですねー、2chオカルト板開催の、ラジオをつかったネット上のお祭りでして、一夜まるまるつこて、視聴者から投稿された怪談噺を一〇〇の話を朗読する、っちゅうもんなんです。 ニコニコにも宣伝があがっとるんで、まずはそれを宣伝、っと。
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2011/08/05 ヘンシウ 仕分け:日記 感想:41 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
音色の不思議。 義太夫や新内を楽譜に起こしてみて初めて気づくんですが、音色によって音程というのは実に聞こえ方のちがいます。特に義太夫は太夫の声が太くしゃがれとって、野武士のよな印象の強いのに、実際には一般人やととても出せんよな高音でうたっとったりします。 笙にも同じような現象を見つけることのできます。合竹のあの不協和音が心地よく響くんは、調律の工夫や音の大きさを管ごとに変えとるというのもあるでしょうが、やはり笙特有の音色にあるんやないか。あれが例えばバグパイプのようなじぐざぐした波形の音色やったら、うるそうてたまらん思います。 音色へのこだわりはどこの国の民族音楽でも根強いです。西洋近代だけが、特殊なんです。 近代西洋音楽では楽譜の発明により、旋律と拍子厳密に記録することに成功しましたが、一方で楽器に対する音色の執着を忘れてもうた部分がある。 ロックのエレキギターやシンセサイザーを多用した現代の音楽は、音色への執着への先祖がえりといったとこやないやろか。 楽器が音のゆがみを求める一方で、向こうではロッカーですら、声については未だに透き通った声がええというような、クラシックの伝統がいきついどる気もします。 ハスキーボイスはどこの国でももてはやされますが、あちらのいうハスキーは音程の印象を変えさせるほどのものではなく、あくまで歌いだしにさっと変化を与えるための隠し味といった感じで、実際にうたっとるのを聴くと、喉をひらききったあちらの伝統の歌い方であることに変わりはありません。 日本もやはりかぶれにかぶれて向こうの歌い方をまねとるようです(昔はここまでとちゃいました。演歌のような辛気臭い歌い方がはやる一方で、実は森進一のような、新内にしか聞こえない歌い方をする人がおった。今でも近所の銭湯なんかで、爺さんが新内的な空気の漏れる歌い方をしとるのを見ることがありますが・・・)。 僕はもっと音色っちゅうもんを、ただの味付けやなくて、音楽に対して直接的に作用するような面白い方向にもっていけへんかなと思います。 楽譜やピアノロールで作曲しとると、ついつい抽象的な領域でばかり考えがちで、理論を元に作ったり、楽器の音色は後でえらべばいい、というような安易さに陥りがちです。 しかし音楽とはほんまは、まず具体的な楽器、人、ものがあって、それから抽象的な作為・表現に至るもんです。 ピアノロールで音程決めに試行錯誤すんのとおなじように、音色にもこだわりながらつくってきたい。いや、むしろ音色と表現したいもんを相談することで世界が広がっていくような、そういう流れにこだわりたいですね。
2011/08/05 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:4 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
まずロックをやろて甘えを捨てなあかんのや 若者どもは、ほんまに感性がゆるくて、何かに感動させられたら、その感動の波と同じ波にのって表現者になろうとする 阿呆ぬかせ、岡本太郎もゆうとったように、何かに感動させられたら、それとまったく違う方法で表現せなあかんのや! ええか、音楽を心ざすもんは、ようきけ。 唄は言語から生まれ、言語にかえってくんや。 ロックは英語でしか無理。 日 本 語 で 歌 っ と る 時 点でロックやない。 唄は言葉から生まれ言葉にかえるもん。 英語の様式を受け継いで日本語を無理やりのせたって、唄とはいえん。 日本語をサウンドに取り入れたインストゥルメンタルや。 英語は、子音強調、強弱アクセント、定拍のリズム、韻でなりとうとる! 一方日本語は、母音、高低アクセント、無拍のリズム、掛詞でなりとうとるんや! この二つはおそらく、地球上の音楽の中でもっともかけはなれとるもんやで! 両者から生まれた音楽も同じ 英語は旋律を変えやすいんはもちろん、ある定型の拍があるとき、それに圧縮する形で合わせるのに適しとる。強弱アクセントの言語はもともとスポンジみたいに空白を含んだもんやからな。 日本語はそうはいかん。高低アクセントで同音異義語が多いため、一定の速さ以上にしようとするとこわれてまうんや。つまり、定まった拍の中におしこめようとするやりかたはあわん。 こういうと日本語は不便とか言いたがる奴がおるけど、そんなん無茶苦茶なんや。 言語はそれ自体が向き不向きをはらんどって、それ故音楽性がちごてくるんやないか。 邦楽信者=洋楽信者のようある勘違いをといたるわ。 「日本語は一音=一語やから、テンポの速い曲には向いてない、また音楽的になれない」 これ、大間違いや。 そう感じるんは、洋楽的な作曲技法、つまり音楽を箱(拍)で区切って、その中に音符をちりばめ、言語でそれを拾っていく、みたいな作り方を、そのまま日本語に持ち込もうとするから起こる間違いなんや。 ではどうするかゆうと、拍なんてもんはなくしてもうたらええねん。 くわし解説したるけ、ちょっと時間くれや。 僕が「これこそ日本語音楽の未来や!」と感じたある音楽を紹介するで。 新内節 ぼくはな、この曲と、The march of the black queenを比べてみたんや。 そしたらな、言語自体の音素の数は新内節は四百四十七、The march of the black queenは四百五十七やった。 前者は四百三十三秒、後者は三百九十三秒やったから、それで割ってみた。するとや・・・。 一秒間に含まれる音素(唄パートの音符おもてくれたらええで)は平均して、 新内節は1.03233256、 The march of the black queenは1.16284987 ・・・大きな差は、あらへんのや(ちなみに義太夫節の「語り」の部分は、6.5という超密度や)。 つまり、洋楽とかわらんくらい、新内節は情報が圧縮されとるし、テンポも軽快なんや。 しかも、この計測は音素で図ったゆえ、新内節の四百四十七っちゅうんは、要するに歌詞カードの文字数と同じ。実際には新内節はかなり引き伸ばして歌う場面もあるから、もっともっと音楽的に構築できる余裕はあるゆうことや。 もっとも、The march of the black queen は長めの間奏もあったりするから、その分多少唄パートの密度はさがっとるけど、それはフレディが唄パートで音楽を構成するのはそれで十分、いや、あまり埋め尽くしすぎると音楽としてあかんと判断したからこそそうなったわけ。 日本語はゆったりと、英語はぎっちりとすかすかを交互に、っちゅう違いがあるだけで、両者とも音楽を構成させるのにハンデなんかありゃせん。 「日本語はテンポがどうしたって遅くなる」なんて大嘘やとわこたやろ? 技巧的なことについてやけど、新内節がこうも軽快になれるんは、拍節なんてもんを捨て、テンポなんちゅうもんを否定したからや。 たとえば1分33秒からの、あるいは4分33秒からの三味線の「だんだんだんだん・・・」みたいな連打音を聞けばわかるように、日本語に合わせて伴奏が止まってあげたり、あるいは 3分8秒からのゆぅっくりはやなっていくところみたいに、テンポをなめらかに変えて、歌を引っ張ってあげたりするんや。 拍という箱にとらわれへん自由さ、また加速度をもったテンポ。これが日本語の最高の様式やってん。 これまでの、定拍の、音符をひろってく音楽と比べてみ?西洋的な単調なテンポ、手拍子ちんたら拍、こんなん日本語にとったら足手まといみたいなもんやで。 日本語はシラブルが固定された言語やけ、読み方に加速度がとまなわなおもろないし、七語調みたいに、リズム感を生み出すための最小単位(文節)が長いから、 拍節におさめながらアコーディオンみたいに英語(音符)を伸び縮みさせてリズム感を出す、西洋音楽のやり方とはあいいれんかったんや。 考えたら、当たり前のことやねんけど、こういう発明が生まれたんはほんまに最近になってのこと、江戸時代の「洗練」(僕の大好きな、病的な言葉やな)された文化ゆえ生み出せたんや。 ちなみに明烏は三百年前の曲や。こういう音楽がなぜ作れたのか?はこないだゆうた、詞先・曲先なんて考え方では唄はでけん、っちゅう理論とにとる。伴奏の旋律と日本語はどちらも対等で、お互いを引き立てあう二つの言語やという考えに基づくからこそ、こういう音楽を作曲できるんや。 当時の日本人は、歌詞と旋律に主従をつけるなんていう、欺瞞的な堕落におちいっとらんかった。 楽譜に音符をおいてって、さあこれに日本語を載せよう、なんてやっとる、要領悪い阿呆どもにはおよびもつかん発想。すべては伝統にヒントをさがさんその「カブレ」が原因やで。 邦楽は邦楽 ! 伝統音楽の延長線上にしか、日本語音楽の未来はない。 洋楽中心の考え方を捨てんかい。 実は洋楽厨といわれとるやつらの方が、その覚悟ができとるやつらやったりすんねんけどな 。
2011/08/04 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:69 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル