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2024/11/23 ヘンシウ 仕分け: ▲ トラックバックユ・ア・レル
差別は差蔑。
劣ったものがあれば人は見下します。
このただ当たり前の作用をあなたは否定するのでしょうか。
差別をしたことがない、差別をすることはないと言い切れる人間の方が、自分を見れておらず、幼稚なのですよ
生きている限り差別は付きまといます。当たり前のことです。差別を否定することはナショナリズムを否定することであり、それは人生を否定することです。帰属意識なくして人間個々は成り立ちません。
2010/12/15 ヘンシウ 仕分け:日記 感想:75 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
最近江戸落語に嵌っとります。
柳家喬太郎、立川志の輔の新作落語がお気に入り。
でもやっぱり、何度も聞いてるともっと年季の言った名人の古典が恋しくなります。
どの日本文化にも言えることですが、年を重ねるごとに味が出てくるってところが魅力ですね。
作曲を始めるにあたって日本の音楽を研究しておったのですが、一通り実験してみて、感じたのは、日本の音楽とゆうものは僕らが普段身近に感じている音楽とは全く異質であるということ。
というよりは、僕らが普段接している現代音楽が異質すぎるんですね。
音の全く無い密室空間で、音楽そのものが独立して存在している。この音楽そのもの、というのはメロディと置き換えてもいいかもしれません。メロディというのはすなわち楽譜です。楽譜が曲の魂であり肉体なので、オーケストラの演奏もCDの再生も、ある完璧な状態を目指しての再現ということになります。
対して日本の音楽はもちろんメロディはあるのですが、それがそのときの気分や環境によって伸縮したり、変化したりするのです。
これはライブ感や偶然性ということになるかもしれません。つまり、飽くまである場面において、ある歌う者がいたとしたら、曲はその時その空間のために存在するもののように感じます。
これはただ単に、即興演奏として発展してきた音楽と、演劇のなかで発展してきた音楽との違いなのかもしれませんが…。しかし能管の音の恣意的なでたらめさや、間の伸縮などを考えると、日本の音楽は特に即興性の側に傾いているように感じます。
また、楽譜がないがゆえに(いや、実はもちろんあるのですが、あちらのものほど詳細ではありません。例えば古典の音楽だと鳴らす音は分かっても、どれくらいのテンポで演奏するかが分からない、ということがあるそうです)、日本の音楽は師匠から弟子へと継がれるわけで、そうすると楽器に依存するところが大きい。そこで、楽器の鳴らす一音一音の魅力、音の豊潤さというのがとても大事になってくると思います。
武満徹氏は「西洋の音楽が歩行するのに対して、日本の音楽は立ち上がる」と言っていましたが、本当に真理をついた言葉だと思います。虚とも言うべき時間があって(これは無音というのとは違います。むしろその時間その空間の音、匂い、気配などによって醸し出される、何かが去っていきつつ、また新たに来る何かを待ち構えるときの独特の緊張)、その中に絶妙に音が入り込み、またそれによって新たな余韻が生まれる・・・というようなプロセスで音楽が作られているのです。
この「絶妙に」の絶妙さを実現するのが間の感性ということになりますが、これに関しても気づいたことがあります。この間というものは必ずしも限られたものではないということです。一度逃したらもう終わりというものではなく、例えばイメージで言うと、小学校なんかでやった、集団でやる縄跳びです。あるタイミングを逃しても、また次に進むべきタイミングがある。間はどの波に乗らなければいけないということはないですが、いつ波に乗るかというのは波の性質によって決められるわけです。
とにかく、メロディが、ある音が鳴って、その音が忘れられないうちに次の音が連続する・・・というプロセスを絶対条件としていることを思えば、日本音楽はメロディベースで出来ていないことは明白なので、いくら現代の人がメロディアスな曲を作りたいからといって、日本の楽器であれこれキャッチーなメロディを鳴らしても、それはただの和風サウンドを使った西洋音楽でしかならないのでしょう。
思えば、五音音階というのは寂しいように感じますが、実は音の豊潤さで勝負するためにメロディだけで完結してしまわないための工夫なのではないでしょうか。例えば中国の京劇や現代中国音楽家の二胡などを聞くと、七音音階の音楽が結構あるのですが、なんだかメロディが西洋的になればなるほど二胡の魅力が薄れてしまうように感じます。
五つしか音が無いということは、音と音の感覚が広くなると言うことです。つまりそれだけ、ある音を鳴らすときの遊びの部分が増えることになる。五音音階というのは欠点なのではなく、むしろ音の魅力を最大限に愉しむがための進化と言えないでしょうか。もっとも、躁音を多く含む和楽器において、音を区別するのに適した音がたまたま五音だった、という考え方も出来ますが。
以上のことを踏まえて、日本音楽を作曲しようと言うときに、西洋音楽ベースの今の音楽の感覚で作ろうとしては上手くいかないかもしれません。
もっと新しいアプローチや制作環境が必要なのではないでしょうか。
つまり、CDにマスタリングするときに、普通完璧な無音空間の中に、楽器の音を載せるというのが普通ですが、日本の楽器の演奏でやる際にには、環境音を取り入れたほうがいいのかもしれない。例えば「瀬音」 の演奏ならば、川の流れる音を背景に演奏をするとか。
また、音そのものに偶然の要素を持たせる。つまり演奏しながらリアルタイムでランダム要素を含んだ音を生成する、プログラムによる音楽です。そこまで出来なくても、例えばDTMで作曲しようとすると、どうしても音が「正確すぎる」音程になってしまいますから、VSTの方でもっと同じ音程でも音の「質」のようなものを細かくいじれるような仕掛けを用意するとか。
それに、今のDTMはピアノロールによるものが主流のわけですが、これも「間」の音楽である日本音楽の作曲には向かないのは明らかでしょう。どのシーケンサーソフトも拍子や音符などの仕様が西洋音楽ベースになっているから、というのもありますが、もっと大きいのは、テンポやリズムの変更が柔軟でないというところ。音符を置いて、それを(部分だけ)再生してメロディを確かめて、また置いて、というやり方に疑問を感じつつあります。
まあDTMをやる時点で、デジタル音では楽器の魅力を出せない、という苦心もあるのですが、それに関してはある面白いアイデアがあって、いずれまた詳しくお話しようと思います
※ヒントをやると、サウンドの面白さがあればいいわけですから、何も伝統楽器に拘る必要はないのかな、ということです。さすがに伝統楽器の音源の乏しさと戦うには、(主に金銭的に)弱い立場にいますので。
2010/12/15 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:12 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
可決の見通しとはいえ、ちゃんと正式に受理されるまでは安堵はできませんね。
2010/12/14 ヘンシウ 仕分け:未選択 感想:135 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル