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2024/11/24 ヘンシウ 仕分け: ▲ トラックバックユ・ア・レル
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2024/11/24 ヘンシウ 仕分け: ▲ トラックバックユ・ア・レル
天台声明・海老原廣伸(対揚)
で検索してみてください。
凄いです。
声明は前からずっと気になっていたのですが、この曲を聴いて、声明の表現しようとしている世界が少し見えてきたように思います。
西洋の合唱の感覚から離れて見ないと、その本質は見えません。
僕は前々から、現代の音楽で、人間が歌を歌うときに「音程」を正確にとろうとあれこれと音を弾ませたり、テンポを速めたりするのを見ていて、妙なものだと思っていました。
特に、やはり自分も日本人だからか、日本人の日本の歌などは、不自然な日本語としか写らず、大層なことを歌った歌詞をなぞりながら、心をこめているふりをして頭の隅では技巧をこらそうとしている矛盾、小ざかしさばかりが透けて見えて、どうにも好きになれませんでした。
そんなときに見た、この声明。
声明にはれっきとした音程がありますが、なんというか、音程があって人がそれに合わせるのではないような気がするのですよ。
なんというか、あくまで声明でやろうとしているのは腹から「息」を通して外界に魂を放つことであって、「その結果として」音の高さが上下しているように見えるのです。
息を吐ききろうとしているときには、自然と音程が高くなりますから、力強く歌い上げようとしているときは上行するし、慰めるように優しく歌うときは下行する。
もちろん、三宝和讃などを聞いていると、美しい旋律があって、必ずしも純粋に旋律を意識していないかといういとそれは違うでしょうが、しかし、ベースの部分で、技巧うんぬんよりも、歌い手の情念や祈りを最優先にしていることは間違いない。
古代の人間の声というものの考え方、捉え方に感心いたしました。
もう一つ面白かったのが、声明のモノフォニーが決して退屈しないものであるということ。
同じ音程で歌い上げることに何の意味があるのか、というのが普通の感覚でしょうが、実際聴いてみると全く違う。
なんというか、低音を重ねることで薄っぺらな余計な部分が相対的に薄まって、声の筋のようなものが生じてきます。
一つのパートを歌い上げることが、芸術的に未開であるということは決してなく、また単に音量を増大するという効果を狙ったものではなく、モノフォニーでなければ絶対に成し得ない世界というのがあることを、最も分かり易く示してくれるのが声明ではないでしょうか。
2011/01/19 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:25 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
ご 自 由 に ご 感 想 を
お前の分例えばっかで雰囲気で表現しようとしてばっかだな。そのお勧めの曲ってのもどうせ意味分からんまま書いてんだろw
頭良さそうなやつの書き込みに影響されて、声明が好きな自分なんかかっこいいってやつ。
もしこれで本物って言われたら・・・痛々しくて見てられなくなるな・・・
因みに私は依然KMの名前を使って自分の意見を言っていたものです。
あの時は状況をよく掴まず発言してしまい、申し訳ありません。
そういえば、丁度この頃にあの震災があったんですよね、、、
僕のところはそれほど被害は無かったのですが、知り合いのお兄さんが亡くなったのを覚えています。その人も猫を飼っていました。当時幼稚園児だったので、何も覚えていませんが、、、
ゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ我はゴリ羅王だ
こいつは高尚って思われてる物が好きな自分が好きなだけで本質なんてまったく理解してないからね
こいつにとって趣味は下品な言い方だけどただのズリネタですよ
外側だけ見て理解してる気になってるだけ
http://www.tendai.or.jp/shoumyou/index.php
>梵語讃(ぼんごさん)とはサンスクリット音を漢字で表記した声明曲である。内容は仏の四つの知恵を讃える詩で、鏡のようにあらゆるものを差別なく現し出す智(大円境智)、自他すべてのものが平等であることを証する智(平等性智)、平等の中におのおのの特性があることを証する智(妙観察智)、あらゆるものをその完成に導く智(成所作智)の四つが唱えられる。
差別主義者には永遠に声明の世界は見えてこないという事です。
他にも言いたい事は色々ありますが…。
ま、桃尻語訳枕草子も読んでなさそうな人に言ってもね…
何か腹で歌うの意味取り違ってるぞ
腹で歌うは腹式呼吸のことだろ
なんで感情の話になる
それから言葉がおかしいから指摘しとくと
発言×表現○
だと思うが
というか趣味にされたものが不憫すぎる...
いい文化なのに、文化荒らしのお気に入り化してしまうのはかわいそうだ。
自分の趣味や好きな文化のためにもそういうのやめようや。
腹で歌う、というのは、単に感情を込めて歌うというのではないのです。
息を常に意識して、呼吸するかのように、周囲の空気と対話しながら歌う感じでしょうか。
その対極にあるのはクラシック音楽です。
対極というか、もっとも分かり易い形で発言しているのが、ですね。なんたって、指揮者がいるのですから。
ロックをはじめとする現代の音楽は、クラシックに比べれば腹で歌うように見えなくもありませんが、私はやはりそうではないと思う。私はQUEENが大好きですので、決して否定する気はありませんが、ロッカーが歌っている様は、あたかも人間が楽器になってしまったかのような奇妙な感覚を味わうのです。
言いたいことは解るが音程を取ろうとしなければただの棒読みになるからちょっと違うかな
後日本人は腹で歌うっていってるが
それは日本人だけじゃなくて海外歌手も一緒だろ
マイケルジャクソンがいい例
まぁ個人的意見だがな
お~聴いたぞ。素晴らしいじゃないか。でも勝負はポップスでしょ。ポップスで数字勝負をするのに大衆を意識しなきゃだめでしょ。今回も負けたときのフリにしか読み取れない。
日本人は「腹」で歌う、とよく言われます。
声明はその最たるものでしょう。腹の芸術であり、頭の隅で正確に音程をとろうなんていう卑しさから解き放たれてこそ生まれうる。
旋律や歌詞はなぞるものではなく、導くものであって、同時に生まれるものなのではないでしょうか。
ご 感 想 は こ ち ら か ら
ト ラ ッ ク バ ッ ク
無題
文字色は変更できるのね。あんまりみないで使ってたから気付かなかった。
run 2011/01/22 18:53 ヘンシウ ヘンシン