[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
2024/11/23 ヘンシウ 仕分け: ▲ トラックバックユ・ア・レル
日本語ロック論争というものがありまして。 団塊の世代がロックをはじめようとするとき、日本語でロックができるか、ということでえらいもめたんやそうで。 (そういえば、最近逮捕された某いたいたしい自称ロッカーさんは英語派でしたね。) はっぴぃえんどという、これまた退屈なバンドがありまして、かれらが日本語でうたった唄が「はんぱない」(団塊いわく笑)ものやったため、結局「日本語でもロックはできる!」という結論へいたったんやそうです。 ・・・彼らに聞いてみたいんですが、果たして英語で「新内節」は歌えるんでしょうか。 あるいは、ドイツ語で「漢詩」は作れますか? もっというなら、「日本語」を「英語」で話せますか? 日本語でロックを歌えるかなんて、答えは決まってるんです。 唄は言葉そのものであって、ロックは英語でしか歌えません。 せやから彼らは「日本語でロック的な音楽はやれるか(敢えて、ロックの精神は表現できるか、とはいいません。彼らはロックのサウンドに魅せられただけのミーハーであることなんて、小学生でもお見通しです)」と問うべきやったんです。 こんな簡単なことも分からず、非効率的な議論を重ねる彼らはほんまに、阿呆のきわみです。この国で音楽をやる連中がいかに知性が劣ったやつらか、わかろうもんです。 これは議論をする上でいかに言葉を整理して問題の本質を抉れるかの問題であり、国語力の問題といえそうですが、この程度の国語力でよく音楽をやろうと思ったな、といいたくなります。 まあ、話を戻して、英語的なサウンドの格好良さを日本語でやれるか・・・ これならば、僕はできるかもしれない、といえるでしょう。 ただし、そんなことを敢えてやる意味が分かりませんが、と付け加えなければなりません。 ロックのはねるようなリズム、うなるようなギター、ドラムの金属的なサウンド、あれは英語で、アメリカ(あるいはヨーロッパ)という風土があってこそ輝きを持つものです。 英語はシラブル単位で構成された強弱アクセントの言語で、また金属音が強く現れているからこそ、ハイテンポでかきならされるドラムの中でも負けない力強さを持てるのです。 雑誌などで、自称「日本語ロッカー(そんなもんがあってたまるか)が、「日本語は歌に向かない言語なんだよなあ」とか言ってるのを見ると、怒りと同時に笑いがこみあげてきます。 あーあ、マジで言ってんだよな、この池沼は。 ってさ。 彼らが悩むのはたいてい、日本語の金属音の無さ、リズムへのノリの悪さ、情報量の密度の少なさなのですが、そんなものはとっくの昔に解決済みです。 古典を学べば分かることなのですが、本当に彼らは勉強というものをしません。 伝統と切り離された現代人は、音楽家でなくとも伝統を意識的に知る努力をせんとあかんのに、よりによって日本語の職人であるべき彼らが、それをやらないんです。 おそらく、日本のあらゆる芸術――料理、絵画、文学などなど――のうちで、音楽家ほど学ばない人はいないんじゃないでしょうか。 まあ、たまに「かぶれの反動」から日本文化に「かぶれる」阿呆がでてくるわけですが、そういうやつらが真っ先に飛びつくんはサウンド、つまり楽器です。 ロックの乗りで歌いながら、和楽器をかき鳴らして、ああ、俺和を表現してる!とかよくわからないことを抜かします(「和」ってなんでっか? 僕は未だにわからんのですが) 芸術家が批評家であるのは当然ですが、今日では学者でもあれ、というのが僕の考えです。 今の日本人にとっては西洋音楽やロックこそ自然体であり、活きた伝統だよ~、わざわざ学ばなきゃ理解できない時点で、日本の伝統は伝統じゃないんだよ~ 、と言い訳がましいことをぬかすへたれもいますが、「無理」をしなきゃ創造はありえません。 あちらのロッカーが、とっくに崩壊しつつあるロックの精神とやらを捏造してまで継承しているふりをしとるのと同様、 新しい音楽をはじめるには理論が必要だし、「無理」をしなきゃならんのです。 日本語でロックを歌うなんていう無理をしている彼らが、日本語のための音楽を創造しない言い訳のときだけ自然体をアピールするんだから、笑えますね。 要はファッションとしてださいことをやりたないだけなんですよ。 ですから、日本の音楽番組で「ロックバンド」を自称する日本人が出てきても、僕は何も期待しません。 学ぶものなんて何一つありません。 本気です。 英語圏以外のやつで、ロックを名乗る連中は、全否定します。 まるっきりまるまるつるっとまるっときれいさっぱりかっぽり、ごみです。 ごみ☆くずです。 今更でしたが、敢えてはっきり言っておきました。
2011/07/08 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:156 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
しゃれってのはまあ、駄洒落も含めた、ユーモアのことですわ。 唄に洒落っけは不可欠です。古くは都都逸、小唄、川柳、俳句などなど、言葉遊びとユーモア、粋に溢れた音楽がたくさんありました。思えば落語かってそうです。言葉と音楽、どちらにかたむいとるかの違いだけであって、たとえば桂枝雀の落語なんて、ただ流れているだけでも音楽のようで、きいてるだけで気持ちよくなってきます。 それが、明治の軍国主義者ども、サッチョーやトーホクのズーズーたちによって、なんともつまらん、退屈なもんにかえられてもうた。 ・・・前にも言いましたが、文化は社会そのものです。演者と聴衆とがいっしょに高めあい、尊重しあうから、多くを語らない、知性の音楽がでけるんです(こないだ、怪獣は聴き手に対するサービスがたりんなんて阿呆がいましたが・・・)。 今は、演者も聴衆も、程度が低すぎます。 商業音楽は演者が、ボーカロ()などの宗教音楽は聴き手が、どちらか一方が歩み寄ることがもとめられとるから、洒落なんてもんはありません。新内節のような緊張の持続なんてもんがあるわけがなく、べちゃべちゃしたチャーハンやオムライスのような音楽しかでけへん。 日本独自の唄としてあげられるもんが二つあります。ひとつは演歌でもうひとつがビジュアル系ですが、これらに共通するのはその徹底した洒落っけのなさです。洒落っけを「深刻なことを笑い飛ばす」と定義するなら、ふたつともその反対の音楽です。 必死に、深刻ぶります。 いまどき「津軽海峡」みたいな激情恋愛する阿呆がおりますか?「ソンザイノフアン」やの、「ツギナルセカイヘノタビダチ」やの、そんなん真剣にかんがえとる阿呆がおるんですか? 支持しとるやつらも阿呆ばっかしです。 ビジュアル系を好むのってキモヲタが多いけど、むべなるかな、やね(ところで、海外のある国で日本のビジュアル系バンドをまねとるやつらがおるそうですが、もちろんその国とはドイツです笑)。 教養がない、知性がない、度量がない。 それが、戦後の日本の歌です。 かつては違いました。 http://www.youtube.com/watch?v=8fj1qlPQieI
http://www.youtube.com/watch?v=_lBSCgCDNIA なんとおおらかで、気取りのない。音楽的にも、今のやつらの百倍は独創的で、優れとります。 すわひでおなんかと比べてくださいよ(笑)。 ちなみに、上二つとも、上方の音楽家です。 むかしの上方は、こうやったんです。今の吉本(ゆうときますが、ヨシモトはトンキン企業です!)なんかに毒されるまえの、優雅で温かみにあふれた、『細雪』の時代の大阪。 ぼくはそのDNAをうけついどるはず。 なんとか、にほんの唄に、洒落の文化を復活さしてやりたいですね。
2011/07/07 ヘンシウ 仕分け:主義・主張 感想:133 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
小説の連載を開始予定。
発表場所はまだ決めていません。
文字情報だけですから(イラストも部分的に使うかもしれませんが)、ここでもできますが、できればちゃんとした場所でやりたいですね。
どこかいいところがあったら教えてください。
2011/07/06 ヘンシウ 仕分け:創作<小説> 感想:31 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル