歌の歌い方について ―聲―
天台声明・海老原廣伸(対揚)
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凄いです。
声明は前からずっと気になっていたのですが、この曲を聴いて、声明の表現しようとしている世界が少し見えてきたように思います。
西洋の合唱の感覚から離れて見ないと、その本質は見えません。
僕は前々から、現代の音楽で、人間が歌を歌うときに「音程」を正確にとろうとあれこれと音を弾ませたり、テンポを速めたりするのを見ていて、妙なものだと思っていました。
特に、やはり自分も日本人だからか、日本人の日本の歌などは、不自然な日本語としか写らず、大層なことを歌った歌詞をなぞりながら、心をこめているふりをして頭の隅では技巧をこらそうとしている矛盾、小ざかしさばかりが透けて見えて、どうにも好きになれませんでした。
そんなときに見た、この声明。
声明にはれっきとした音程がありますが、なんというか、音程があって人がそれに合わせるのではないような気がするのですよ。
なんというか、あくまで声明でやろうとしているのは腹から「息」を通して外界に魂を放つことであって、「その結果として」音の高さが上下しているように見えるのです。
息を吐ききろうとしているときには、自然と音程が高くなりますから、力強く歌い上げようとしているときは上行するし、慰めるように優しく歌うときは下行する。
もちろん、三宝和讃などを聞いていると、美しい旋律があって、必ずしも純粋に旋律を意識していないかといういとそれは違うでしょうが、しかし、ベースの部分で、技巧うんぬんよりも、歌い手の情念や祈りを最優先にしていることは間違いない。
古代の人間の声というものの考え方、捉え方に感心いたしました。
もう一つ面白かったのが、声明のモノフォニーが決して退屈しないものであるということ。
同じ音程で歌い上げることに何の意味があるのか、というのが普通の感覚でしょうが、実際聴いてみると全く違う。
なんというか、低音を重ねることで薄っぺらな余計な部分が相対的に薄まって、声の筋のようなものが生じてきます。
一つのパートを歌い上げることが、芸術的に未開であるということは決してなく、また単に音量を増大するという効果を狙ったものではなく、モノフォニーでなければ絶対に成し得ない世界というのがあることを、最も分かり易く示してくれるのが声明ではないでしょうか。
2011/01/19 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:25 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
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無題
文字色は変更できるのね。あんまりみないで使ってたから気付かなかった。
run 2011/01/22 18:53 ヘンシウ ヘンシン