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2024/11/23 ヘンシウ 仕分け: ▲ トラックバックユ・ア・レル
その前に今回の感想をば!
全体的にレベルが上がってきているな、という印象。
素人っぽさが抜けて、洗練されている。
一時期のようにトランスばかりということはなくなっていて、それぞれが自分の個性を持っている。
最近の中では一番水準の高い戦いだったのではないでしょうか。
特に気に入ったのは以下の二つ。
>>97 水底に沈んだ欧州の古村における三つの断片/ゲドンちゃん
発想が面白い!
尺が足りないからただ分割したって感じではなくて、飽くまで断片を示すことが想像力を掻き立てて、魅力になっていますね。
実をいうと、私の曲もかぐや姫の物語を追っていったものなのです。
最初の笛の音はかぐや姫の感傷的な述懐を、そこがそのままかぐやと爺様の出会いになっていて、その後成人の祝いや
月の都の者たちに運ばれていき、去っていく・・・という表現なのですが、いかんせん尺が足りず、また音源が不足していたので
(本当は主旋律を胡弓で、副旋律を琵琶で感傷的にやりたかったのですが・・・)半分も表現できませんでしたよ。
>>98 旅人のエレジー(Short mix) / Soft Lab.
エレジーってのは、悲歌(挽歌)のことですね。旅人が故郷を想っているのだろうけど、
決して甘美な思い出に浸っているだけではない、含みがあるのがミソですね。
この望郷が主題だと知ったとき、始めに浮かんだ興味が、現在と過去をどう対比させるか、でした。
思い返している人がいる現在と、思い返される対象である過去。
ただ過去の情景だけを甘美に表現するだけじゃ、つまらなくなってしまうな、と思っていたのですが、
この曲はまさに過去と現在の対比によって曲が成立していて、非常に深みのある表現になっていると感じました。
さて、僕の曲、『かぐや』http://sampling.sakura.ne.jp/vipdtm/event/file/vipdtm_event0717.mp3 は残念ながら得票はなく、最下位に終わりました。。。
まあ、急ごしらえの曲ゆえ、音はぶつぶつだし、予想はしていたのですが、もう少し表面上の小奇麗さより置くにある、本質を見て評価してほしかったというのが本音のところです。
今回の反省点は、、、
①楽曲として最低限のことをクリア、、、僕はこれまで「本質が重要ゆえ、多少音質や仕上げが悪くてもやむなし」という心がけでやってきました。それに、DTMを始めてまだまだ日が経っていませんから、まずは曲を沢山作ることを最優先していたということもあるのです。まあ、それ以前にスペックの問題からどうしても音が限られてしまうというのもあったのですが、、、
が、さすがにもうサードアルバムを出そうかというころあいです。そろそろ、聞く側にとって「なめらかな」曲を用意していきたいと思います。
その道筋はすでにみえておるのです。それが「分割録り」による「多重録音」。これまでは、スペックの関係から容量がすぐいっぱいになり、録音中に音が壊れてしまう問題があって、VST(楽器のようなもの)を、泣く泣く安いものにすることしばしばでした。が、どうやらその問題は「多重録音」というもので解決できそうです。
それどころか、分割録りにすることでトラックごとの調整もできて、表現の幅も広がると言うではないですか!
今から非常に楽しみなのです。
②より簡素に、、、やはり自分は凝り過ぎなようです。凝ることは決して悪くないのですが、それが行き当たりばったりによる見通しの無い凝り方なのは反省しなければなりません。計画を綿密にして、全体から部分へ作っていこうというのは、初期から反省しようしようと思いながらも、まるで実践できていないことでした。行き当たりばったりというのも決して悪いものではなく、音を順列に作っていく今のやり方は、とても音に対して誠実に付き合っているようで好きなのですが、次の大会こそは(今度こそ)、二分という枠組みから逆算して音楽を作るというのをやってみようかと思います。
音選びから丁寧に、、、ね。
③Dominoの機能を使いこなそう、、、特に「ベロシティ」と「ピッチベンド」!今純邦楽の要素を取り込もうとしているわけですが、純邦楽はサウンド重視なのだから、やはりただ音符を置いて鳴らしているだけでは駄目ですよね。とはいっても、素材がフリーでは限界があり、音色はどうしたってチープになってしまいますが、、、
④生演奏を模倣、、、正直にいって、これまでは鳴らせる音を鳴らしてやろうという意識でした。笛の息継ぎなんかキにせず、またストリングスで鳴らせる音かどうかなど配慮せず、コンピュータができればそれでよしとばかりに音符を置いていました。出来た曲が全てなのだからそれもいいのでしょうが、やはり、VSTとはいえ楽器である以上、物理的な自然さというのにこだわるのが筋でしょう。実は今回、この試みはやってはいるのです。というのは、最初と最後にある笛(尺八ですが)はかなり息継ぎのタイミングを意識したものになっています。
さて、以上の四つに気を配って、次の大会に参加したいと思います。
なお、おそらく次かその次の大会までに発表した曲、さらに未発表のオリジナル曲をまとめたものを、サードアルバムとして発表することになると思います。アルバムをいまかいまかと待ってくださっている方、お待ちどうさま。これから大会の展開に注目しててくださいね。ちなみに次の大会のお題決定は、月曜日にスレ(http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1292604736/l50)にて投票で決められます。もしかしたら、あなたが提案したお題や投票することで怪獣の作る曲が左右されるかも!?
是非是非、今後ともたのしみながら応援してください。
それでは。
2010/12/20 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:165 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
作曲家としての私を慕ってくださっている方には、寂しい思いをさせていました・・・が!!!
いよいよ条例が片付き、休憩の意味をこめて、創作活動、再開します!
活動の詳細はVIPDTMスレにて!!!(規制されてた場合は、避難所でね^^)
さらに今回は、作曲にとどまらず、新たな一面を見せたいと思っています。
乞うご期待!!!
2010/12/17 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:201 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
最近江戸落語に嵌っとります。
柳家喬太郎、立川志の輔の新作落語がお気に入り。
でもやっぱり、何度も聞いてるともっと年季の言った名人の古典が恋しくなります。
どの日本文化にも言えることですが、年を重ねるごとに味が出てくるってところが魅力ですね。
作曲を始めるにあたって日本の音楽を研究しておったのですが、一通り実験してみて、感じたのは、日本の音楽とゆうものは僕らが普段身近に感じている音楽とは全く異質であるということ。
というよりは、僕らが普段接している現代音楽が異質すぎるんですね。
音の全く無い密室空間で、音楽そのものが独立して存在している。この音楽そのもの、というのはメロディと置き換えてもいいかもしれません。メロディというのはすなわち楽譜です。楽譜が曲の魂であり肉体なので、オーケストラの演奏もCDの再生も、ある完璧な状態を目指しての再現ということになります。
対して日本の音楽はもちろんメロディはあるのですが、それがそのときの気分や環境によって伸縮したり、変化したりするのです。
これはライブ感や偶然性ということになるかもしれません。つまり、飽くまである場面において、ある歌う者がいたとしたら、曲はその時その空間のために存在するもののように感じます。
これはただ単に、即興演奏として発展してきた音楽と、演劇のなかで発展してきた音楽との違いなのかもしれませんが…。しかし能管の音の恣意的なでたらめさや、間の伸縮などを考えると、日本の音楽は特に即興性の側に傾いているように感じます。
また、楽譜がないがゆえに(いや、実はもちろんあるのですが、あちらのものほど詳細ではありません。例えば古典の音楽だと鳴らす音は分かっても、どれくらいのテンポで演奏するかが分からない、ということがあるそうです)、日本の音楽は師匠から弟子へと継がれるわけで、そうすると楽器に依存するところが大きい。そこで、楽器の鳴らす一音一音の魅力、音の豊潤さというのがとても大事になってくると思います。
武満徹氏は「西洋の音楽が歩行するのに対して、日本の音楽は立ち上がる」と言っていましたが、本当に真理をついた言葉だと思います。虚とも言うべき時間があって(これは無音というのとは違います。むしろその時間その空間の音、匂い、気配などによって醸し出される、何かが去っていきつつ、また新たに来る何かを待ち構えるときの独特の緊張)、その中に絶妙に音が入り込み、またそれによって新たな余韻が生まれる・・・というようなプロセスで音楽が作られているのです。
この「絶妙に」の絶妙さを実現するのが間の感性ということになりますが、これに関しても気づいたことがあります。この間というものは必ずしも限られたものではないということです。一度逃したらもう終わりというものではなく、例えばイメージで言うと、小学校なんかでやった、集団でやる縄跳びです。あるタイミングを逃しても、また次に進むべきタイミングがある。間はどの波に乗らなければいけないということはないですが、いつ波に乗るかというのは波の性質によって決められるわけです。
とにかく、メロディが、ある音が鳴って、その音が忘れられないうちに次の音が連続する・・・というプロセスを絶対条件としていることを思えば、日本音楽はメロディベースで出来ていないことは明白なので、いくら現代の人がメロディアスな曲を作りたいからといって、日本の楽器であれこれキャッチーなメロディを鳴らしても、それはただの和風サウンドを使った西洋音楽でしかならないのでしょう。
思えば、五音音階というのは寂しいように感じますが、実は音の豊潤さで勝負するためにメロディだけで完結してしまわないための工夫なのではないでしょうか。例えば中国の京劇や現代中国音楽家の二胡などを聞くと、七音音階の音楽が結構あるのですが、なんだかメロディが西洋的になればなるほど二胡の魅力が薄れてしまうように感じます。
五つしか音が無いということは、音と音の感覚が広くなると言うことです。つまりそれだけ、ある音を鳴らすときの遊びの部分が増えることになる。五音音階というのは欠点なのではなく、むしろ音の魅力を最大限に愉しむがための進化と言えないでしょうか。もっとも、躁音を多く含む和楽器において、音を区別するのに適した音がたまたま五音だった、という考え方も出来ますが。
以上のことを踏まえて、日本音楽を作曲しようと言うときに、西洋音楽ベースの今の音楽の感覚で作ろうとしては上手くいかないかもしれません。
もっと新しいアプローチや制作環境が必要なのではないでしょうか。
つまり、CDにマスタリングするときに、普通完璧な無音空間の中に、楽器の音を載せるというのが普通ですが、日本の楽器の演奏でやる際にには、環境音を取り入れたほうがいいのかもしれない。例えば「瀬音」 の演奏ならば、川の流れる音を背景に演奏をするとか。
また、音そのものに偶然の要素を持たせる。つまり演奏しながらリアルタイムでランダム要素を含んだ音を生成する、プログラムによる音楽です。そこまで出来なくても、例えばDTMで作曲しようとすると、どうしても音が「正確すぎる」音程になってしまいますから、VSTの方でもっと同じ音程でも音の「質」のようなものを細かくいじれるような仕掛けを用意するとか。
それに、今のDTMはピアノロールによるものが主流のわけですが、これも「間」の音楽である日本音楽の作曲には向かないのは明らかでしょう。どのシーケンサーソフトも拍子や音符などの仕様が西洋音楽ベースになっているから、というのもありますが、もっと大きいのは、テンポやリズムの変更が柔軟でないというところ。音符を置いて、それを(部分だけ)再生してメロディを確かめて、また置いて、というやり方に疑問を感じつつあります。
まあDTMをやる時点で、デジタル音では楽器の魅力を出せない、という苦心もあるのですが、それに関してはある面白いアイデアがあって、いずれまた詳しくお話しようと思います
※ヒントをやると、サウンドの面白さがあればいいわけですから、何も伝統楽器に拘る必要はないのかな、ということです。さすがに伝統楽器の音源の乏しさと戦うには、(主に金銭的に)弱い立場にいますので。
2010/12/15 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:12 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル