陰と陽
陰陽。陰がをんなで、陽がをとこ。闇より光生まれむ。必ず陰が先に来るのだ。しかし音樂でいへば、間拍子の表拍は陽、裏拍は陰。音樂のみ前後するのはおかしいと、不思議やった。 假説でしかないが、本來、強弱強弱、といふ流となって居るのは閒違ひではないか。本当は弱強弱強ではなかったか。それが、いつの頃からか、拍節単位では強を中心にまとめるやうになったのではないか。 たとへば句でいへば、終止音にその句の性格が最も強く發揮されるのであるから、前小節と後小節に句を頒けるなら、後小節こそ「陽」ではないか。フラクタルな性質を持つ日本音楽において、小節単位でのみ、前拍に力強さが表れる、つまり陽→陰の流で構成されて居るのは奇妙である。 斯うはかんがへられないか。フラクタルな構造を、より小さい単位へと無限に突き詰めれば、特異點…つまり曲の頭だが…に行き着く。その特異點こそ、原始であって、つまりは陰、萬物の源であると。声を発する瞬間、無が有に轉じる。有が轉じた瞬間、それ以前の無が定義されるのだ。 つまり、自由拍節の音樂でいふなら、言ふ迄も無く、無から音樂は始ってゐる。それを、人間が数理的客観的に共有できる八木節的音樂の時間原理に轉じるとき、もちろん宇宙の原理に従って、陰から陽への構造を理論としたであらうが、その最小単位では、その原理を模倣してはならなかった。 すなはち、小節単位で覧た時、その頭を強拍としたのには、明確なその必要があったからだ。すなはち、執拗に宇宙の原理を模倣することをどこかで諦めねば、宇宙的「無(人間が創造した音樂世界、別宇宙に組み込むまでもない絶対的な宇宙)」と斷絶されてしまう。 手を拍けば音がなる。なった音はいずれ消える。しかし、いつ音は生まれたのだらうか。いつ、音は消えたのだらうか。それを規定することは、人間の認識能力をこえてゐる。しかし、有が生まれた瞬間、それ以前の無は絶對的なものに、また有が生まれた瞬間、その有が無に還ることは約束されて居る。 宇宙に始まりと終わりはあるか。他がそれを領ることは絶對にできぬ。少なくとも、音樂にはある。完らずにはいられぬし、あるいは、完らなくてはならぬ。然れば、宇宙を完全に模倣することはもとより不可能。しかし、それでよい。不完全な模倣、たどり着くことのない挑戦と諦めこそ、藝術、創造の美…
2012/09/16 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:29 ▲ トラックバックユ・ア・レル
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無題
自分の言ったことぐらいは守ってくれよなー、頼むよー
とりあえず、前言ってた国旗作るんだよ、おう
あくしろよ
ナ ナ シ カ イ ジ ュ ウ 2012/09/28 20:52 ヘンシウ ヘンシン