日本語でロックをやるという無理
日本語ロック論争というものがありまして。 団塊の世代がロックをはじめようとするとき、日本語でロックができるか、ということでえらいもめたんやそうで。 (そういえば、最近逮捕された某いたいたしい自称ロッカーさんは英語派でしたね。) はっぴぃえんどという、これまた退屈なバンドがありまして、かれらが日本語でうたった唄が「はんぱない」(団塊いわく笑)ものやったため、結局「日本語でもロックはできる!」という結論へいたったんやそうです。 ・・・彼らに聞いてみたいんですが、果たして英語で「新内節」は歌えるんでしょうか。 あるいは、ドイツ語で「漢詩」は作れますか? もっというなら、「日本語」を「英語」で話せますか? 日本語でロックを歌えるかなんて、答えは決まってるんです。 唄は言葉そのものであって、ロックは英語でしか歌えません。 せやから彼らは「日本語でロック的な音楽はやれるか(敢えて、ロックの精神は表現できるか、とはいいません。彼らはロックのサウンドに魅せられただけのミーハーであることなんて、小学生でもお見通しです)」と問うべきやったんです。 こんな簡単なことも分からず、非効率的な議論を重ねる彼らはほんまに、阿呆のきわみです。この国で音楽をやる連中がいかに知性が劣ったやつらか、わかろうもんです。 これは議論をする上でいかに言葉を整理して問題の本質を抉れるかの問題であり、国語力の問題といえそうですが、この程度の国語力でよく音楽をやろうと思ったな、といいたくなります。 まあ、話を戻して、英語的なサウンドの格好良さを日本語でやれるか・・・ これならば、僕はできるかもしれない、といえるでしょう。 ただし、そんなことを敢えてやる意味が分かりませんが、と付け加えなければなりません。 ロックのはねるようなリズム、うなるようなギター、ドラムの金属的なサウンド、あれは英語で、アメリカ(あるいはヨーロッパ)という風土があってこそ輝きを持つものです。 英語はシラブル単位で構成された強弱アクセントの言語で、また金属音が強く現れているからこそ、ハイテンポでかきならされるドラムの中でも負けない力強さを持てるのです。 雑誌などで、自称「日本語ロッカー(そんなもんがあってたまるか)が、「日本語は歌に向かない言語なんだよなあ」とか言ってるのを見ると、怒りと同時に笑いがこみあげてきます。 あーあ、マジで言ってんだよな、この池沼は。 ってさ。 彼らが悩むのはたいてい、日本語の金属音の無さ、リズムへのノリの悪さ、情報量の密度の少なさなのですが、そんなものはとっくの昔に解決済みです。 古典を学べば分かることなのですが、本当に彼らは勉強というものをしません。 伝統と切り離された現代人は、音楽家でなくとも伝統を意識的に知る努力をせんとあかんのに、よりによって日本語の職人であるべき彼らが、それをやらないんです。 おそらく、日本のあらゆる芸術――料理、絵画、文学などなど――のうちで、音楽家ほど学ばない人はいないんじゃないでしょうか。 まあ、たまに「かぶれの反動」から日本文化に「かぶれる」阿呆がでてくるわけですが、そういうやつらが真っ先に飛びつくんはサウンド、つまり楽器です。 ロックの乗りで歌いながら、和楽器をかき鳴らして、ああ、俺和を表現してる!とかよくわからないことを抜かします(「和」ってなんでっか? 僕は未だにわからんのですが) 芸術家が批評家であるのは当然ですが、今日では学者でもあれ、というのが僕の考えです。 今の日本人にとっては西洋音楽やロックこそ自然体であり、活きた伝統だよ~、わざわざ学ばなきゃ理解できない時点で、日本の伝統は伝統じゃないんだよ~ 、と言い訳がましいことをぬかすへたれもいますが、「無理」をしなきゃ創造はありえません。 あちらのロッカーが、とっくに崩壊しつつあるロックの精神とやらを捏造してまで継承しているふりをしとるのと同様、 新しい音楽をはじめるには理論が必要だし、「無理」をしなきゃならんのです。 日本語でロックを歌うなんていう無理をしている彼らが、日本語のための音楽を創造しない言い訳のときだけ自然体をアピールするんだから、笑えますね。 要はファッションとしてださいことをやりたないだけなんですよ。 ですから、日本の音楽番組で「ロックバンド」を自称する日本人が出てきても、僕は何も期待しません。 学ぶものなんて何一つありません。 本気です。 英語圏以外のやつで、ロックを名乗る連中は、全否定します。 まるっきりまるまるつるっとまるっときれいさっぱりかっぽり、ごみです。 ごみ☆くずです。 今更でしたが、敢えてはっきり言っておきました。
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2011/07/08 ヘンシウ 仕分け:創作<作曲> 感想:156 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル