日本の跳ねる音楽
よく日本の音楽はノリがないなんて言われますが、僕はその原因は生活習慣の違いやおもてます。
当時の日本はばりばりの座敷文化で、正座が主流でした。
正座っちゅうことは脚を畳んどるわけで、こういう聴衆を喜ばそうとしたときに、たとえばQUEENのWe Will Rock Youみたいな、足踏みをだんだん鳴らすよな曲はもってのほか、足でリズムを刻むような、ああいうノリは生まれてくるはずがあらへんのです。
人間の体はおもろいもんで、音楽っちゅうんは民族の体型・姿勢によって自然と音のちごてくるもんです。
よう、黒人はリズム感がすばらしい、とか知ったかをかます阿呆(被差別者の肩を持つ自分にようとるっちゅう意味でもすでに阿呆ですが)がおりますが、黒ちゃんのリズム感なんてもんはあの長い手足とバネのある筋肉から自然とああなるんであって、日本人がマネをしたってそれは日本人を感動させるリズムにはなりえんのです。
彼らがリズムをたのしんどるとおもとるんは、ただ単にエキゾチズムの楽しみであり、もっというたら知ったかの遊びみたいなもんです。そら斬新かもしれませんが、地に足着いたもんやない。
やはり日本の音楽を知るためのヒントは日本のものにあると思うわけですが、さて困ったことに、その古代から近代までの日本音楽とも、今の日本人は生活習慣の上で違いがあるわけです。
自然と体がうごいてまう音楽、ないやろか・・・。
そんなときに、でおたんです。
勧進帳です。
有名ですね。
しかしそれゆえに、盲点でした。改めて聴いてみて、その「跳ねる感じ」に驚きました。
自然と足踏みをしとるんです。
いえ、足踏みというよりは、足を浮かすんですね。三味線の「強」のたたきのあとに、「弱」のさらさらしたくすぐりの入って・・・・そのくすぐりの間に足を浮かすんが、実に気持ちええんです。
しかも、その背景にパーカッションが入るんです。
日本のパーカッションはまた特別で、どこぞのスリルのない時計みたいなもんとは一線をかくします。
僕に言わせれば、餅つきの合いの手なんです。
西洋音楽のパーカッションが、一定の繰り返しによって機械的に音楽をまとめたり、場面転換を示しとるんとちごうて、日本のは主旋律に相槌を打つように、後から隙間に入ってくる。
それゆえに常に不安定で、どこかに倒れていきそな気配があるんですが、これが音楽の推進力となっとるわけです。
僕には、いけばなを活けるイメージが常にあります。
不均衡を積み重ねて、最後には均衡を生み出すかのような。
あるいは、鳥山明のイラストですね。疾走感があって、こちらを意識してないんです。そっぽを向いて、突っ走っとる。決してエスコートなんてせえへんのに、自然と、ついていきとおなる(伝わるかな)。
この手のパーカスて普通、足踏みのできるようなもんやないはずなんです。だって能のシテにあわせてのっとる人なんてみたことないでしょ。
せやのに、この勧進帳は違う。
その原因がどこにあんのか、ぜひこれから確かめていきたいところです。
ちなみに、何故歌舞伎音楽に乗れる音楽があるんかってことについては、もう少しかんづいとるんです。
僕が思うに、この乗りのよさは聴衆のためのもんやのうて、舞台で立ち回りをしとる演者のためのもんなんやないやろか……。
この考えは、発展させてったらえらいおもろいことに気づけそうやので、要チェックですね。
まあわあわあゆうとりますが、トーシロの皆さんは深いことなんか考えずに、この感動に酔いしれてくださいな。
ちなみに九分からは、義太夫の影響を受けたらしい長い語りがあります。
2011/07/23 ヘンシウ 仕分け:動画 感想:38 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
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無題
「口ばっかりなトーシロ作品をよくもまあ晒しますな、まったくお笑いだ」
ぬぬぬ 2011/07/26 21:29 ヘンシウ ヘンシン