西洋音楽を好きになれない理由
中国に限らず、東洋の音楽は美しいですよ。
西洋も美しいですが、東洋音楽はいやらしいところの無い音楽だと思いますね。
旋律ってものを作らないでしょう?楽器をある心情を起こさせるためにではなく、
心情を表現したり、詩化したり、慰めたりするために使った。
今日の音楽はJPOPはもちろん、どこを見ても薄っぺらい、欺瞞に満ちたものに成り下がったのは残念ですが・・・
漫画文化も、人間が純粋であった時代のクラシックや純邦楽を聞いて、汚らわしいいやらしさから卒業してほしいものです。
西洋音楽の旋律第一主義は「再現」という概念に引っ張られて生まれたものです。
つまりある場面での感動を封じ込めて、それに飽き足らずその感動によって別の時空をも支配しようという
自然に反した、また人間の欺瞞を前提とした文化です。
それに対して日本や中国の音楽は旋律などは重要ではなく、楽器の音色を楽しむために発展してきました。
音楽は聴くもののためにではなく演奏するものの心を癒すためにあるのであり、
それゆえに真の芸術たりえたのです。
すなわち一回性の芸術であります。(中国は結局大陸文化の影響で、繰り返しの欺瞞に満ちた音楽に行ってしまいましたが)
今日の音楽のなんて醜いことでしょう。
美辞麗句を恥じらいもなく並び立てて、本当はありもしない感動を無理して大げさに騒ぎたて、
対して恋愛経験など無いくせに曲を売るために甘ったるい歌詞を書き、
旋律の表面的な美しさを全く関係の無い歌詞と結びつけて、聞くものを一つのせせこましい世界に押し込もうとする。
音楽とは本来そんなものではなかったはず・・・。
皆さんも違和感を感じませんか?
2010/12/24 ヘンシウ 仕分け:未選択 感想:51 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
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無題
どうも、言いたいことはひとつであり
それは他者とは異なるバイアスの存在しない
物に近いですかね(?)
私は楽典を勉強したわけではありませんが、
子の手の話なら少しばかりなら自信がございます。言いたいのは「芸術の存在は主観の塊である」ということです。
これですが、写実的な音楽-これすなわち
風景や人物を描写する音楽-に関しては
その風景から感じ取れるもの(感情だけでなく見る、触る、聞く、匂意をかぐといった自分の感覚は自分のものであり客観的な描写ではない、よっ)から自らの旋律を紡ぎだした結果が曲となるわけですよね。また東洋音楽に対するあなたの解釈は間違っています。
事実に対する感覚という存在に客観性がないため「演奏するものの心を癒すため」のものは千差万別となるわけです。
私がトカゲという中立的な存在を好いても
他者は嫌うし、曲(曲をただの音の集まりとして見たとしたらそれには客観性がある→石像をただの手のくわえてある石として見るのと同じ)を弾いて喜びを得るか、得ないかは別なんですね。
それなら・・・偽の感動は、何処にあるんでしょう。トイレを用いた芸術作品も存在し、人間を私からするとむごたらしい改造すること(てんそくや幼児時代から器具を使った頭蓋の形状変更)に美を感じ得る人間、いや種族や国まで存在したのですよ。端的に言ってしまうと「貴方の持つ思考は自分の感性に大きくバイアスされている」ということです。長文失礼、レス待ってます。
名無しの怪獣 2011/03/11 23:16 ヘンシウ ヘンシン