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2024/11/21 ヘンシウ 仕分け: ▲ トラックバックユ・ア・レル
日本の古典音楽を聴いていて感じるのは、陰影と重力の音楽であるということ。
陰影とはすなわち一音一音の「光」に、誕生から死までがあるということ。
もちろんそれはどんな音にも言えることなのですが、日本の音楽はその生と死の対照を大切にしており、それゆえテンポの遅く、音を無駄に重ねない、あの「間」が生まれたのだと思いますし、それに、その<光>それ自体が瞬間的に揺れていて、生を主張しているように聞こえるのです(つまり、同時に死も強調されるということです)。
そして重力というのは、日本の楽器の音には、垂直に沸き立つようなイメージがあるからのです。一つの音がおとなしく続くということがなく、時間という概念を感じさせない。私は日本音楽を沸き出でる泉によく例えるのですが、まさに垂直に湧き上がり、あるピークに達して、重力にいよいよ負けて消えてゆき、そしてその消えていく脇をまた別の音が沸きあがる……。こういう繰り返しで構成されているように思うのです。
何故「ユーモア」の話をしているときに、こんな関係の無いように思われる話をするかというと、前回の記事へのコメント欄の反応で、私の言いたいユーモアというものがあまり伝わっていないように感じたからです。
私がいうユーモアを、西洋的な意味で捉えてもらっては困ります。
敢えてユーモアなどという横文字を使ったために無用な混乱を招いたわけで、皆さんを責めるわけではないのです。ただ、とにかく、ここでいうユーモアというものは「笑いをいって場をなごませる力」とかそんなイメージではなく、そういう形として現れる前の、もっと根本的な意味で言っているということを理解ください。
ある同じ行動に移ろうとしたとき、その発現のしかたは民族によって違うのです。
ユーモアの場合、日本人のそれには<陰影の間>と<重力のあきらめ>があることをご理解いただきたい。そして、日本古典音楽が西洋人になかなか理解されないように、その性格の隔たりゆえに日本人のユーモアが理解されなかったのだということを肝に銘じてほしいのです。
そう、日本人はユーモアの無い人たちだと、長らく誤解されていました。もちろん日本人はあらゆる面で誤解されてきましたが、その中でもこの誤解は酷いと思います。
なにせ、ユーモアがないというのは知性・創造性・人間的魅力がないのと同じですからね。
しかし、断じてそうではない。ユーモアの無い人たちに、外国の文化を柔軟に受け止め、自分たちの文化を作り上げることなどできません。<さらにつづく>
2011/05/26 ヘンシウ 仕分け:主義・主張 感想:16 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
日本批判は国技です。
僕もまた「日本に足りないもん」を語ろう思います。戦後からの観点から。
「戦後からの」といいますんは、明治以降、あるいは江戸以前の日本批判と戦後の日本批判は、その批判の軸がちごうとるんです。
江戸以前は、中華主義への反省と日本主義の創造から、主に外国を非難し、外国に追従しようとする自国をなかば諌める様に批判した。自国批判と言いつつも、希望のある批判であり、ある意味では自国礼賛とゆうてもええのが面白い。
すなわち、日本にあって、中国にないもん、があるんや!ということ。
しかし明治以降は、ヨーロッパにあって日本にないもんを語った。これも歴史の必然。
この明治の伝統は戦後も続いていきますが、しかしある時点からじんわりと別の観点に移り変わります。
それが、戦前にあって戦後にないもん。今は自虐史観がなんやかんやゆうて、この風潮がいっそう強まりました。江戸時代と同様、自国批判であると同時に、かつての日本をある種美化する、自国礼賛でもあります。
さて、僕としては、日本にあって世界にないもんを語りたいのですが、その為にはまず、戦前にあって戦後に無いもんを語らなければならない時代になりました――。
戦前にあって、日本にない。
自然愛?軍国主義?愛国心?侍?
いいえ、そのものずばり言いますと、それは「ユーモア」です。
――つづく
2011/05/24 ヘンシウ 仕分け:主義・主張 感想:19 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル
世に数多くの宗教あれど、その教義・哲学はさまざまだ。
しかし、殆どの宗教で、特に世界三大宗教において、唯一一致する見解がある。
「女は不浄である」
というものだ。
仏さんにしろ、キリストはんにしろ、イスラムのおっちゃんにしろ、やれ牛を敬え、人を裁くな、豚を食うなと好き勝手に注文をつけるいらんことしいなわけですが、そんな面倒くさい主張を持つ彼らは口をそろえて言うのだ。
女はのろわれた生き物だと。
もちろんその説明のしかたは様々だが、ともかく宗教者は女は不浄やとしてのろい嫌うのである。
日本人などはやさしいから、歴史を見ても女性に対して常に紳士な方だったが、大陸などはひどい。
アメリカなど、つい最近まで「親指ルール」なるものが存在していたのだから。
人々が女の根性を嫌うのはなぜか。
男系社会がどうやのこうやのもあるだろうが、それ以上に彼らの説を説得付けるものがあるはずだ。
昔は戦争があって、男が女を守らなければならなかった。だから戦いに出れない女は軽蔑された――。
そんな説があり、一理あるが、まだ少し足りないように思う。
ひとことで説明できるはずはないけども、やはり僕は「たしかに先天的に、女は強欲やから」と考えざるをえない。
そう。
ときとして、女の方が暴力的で、好戦的。特にぶりっ子の「たが」の外れた女ほど好戦的なものはない。2chの既婚女性板など見てみればよい。
また、女は非文明的で、建設的でない。自我が強く、貪欲で、知識の使い方をしらず、数字を解せず、動物的ですらある。これもやはり既婚女性板に現れている。
先天的には、女の方が「男性的」「野蛮」とイメージされるべき特質を得ているということ。
これらは誰しも内心では認めている事実やし、そのこと自体はどうでもええ。僕が知りたいんは、「なぜ」神は女をこのような生き物に産んだかということや。
僕は思うに、社会で本当に必要とされる能力こそ、後天的に成長する余地があるように、先天的には備わらないのではないか。
たとえば幼稚園児などをみてみるとよいが、案外男の子の方がおとなしい子が多く、女の子はぶりっ子でもないかぎり非常に元気はつらつで、活発である。
この傾向は小学生時代にも続き、高学年になれば、女子の方が背が高いのである。
本来、男性の方が身長、活発さを備えなければならないのに、矛盾しているように見えるが、それは違う。女は社会的には高いレベルの肉体的強さ、活発さが必要がないからこそ、男性的能力を動物的な部分において備えているのだ。したがって、肉体的・論理的思考力の成長期を男の子より早く終える。
その待遇も言える。
男の子は男性的能力を後天的学習によってのみしか学び得ない。また、繊細さは動物的な部分、つまり本能において生来的に備えている。逆に言えば、その繊細さは本物であるがゆえに、伸びしろがない。
メスは先天的に男性的要素を持ち、女性的要素を磨き上げることによって女、母になる。
オスは先天的に女性的要素を持ち、男性的要素を磨き上げることによって男、父になる。
それが僕の考え。
なぜ必要とされる能力を後天的に学ぶようにプログラムされとるかは、環境に柔軟に対応するためではないやろうか。
たとえばライオンなども、狩の仕方は親から学ぶようになっている。これはサバンナがときと場所によって、最適な戦略が移り変わるからではないやろうか。もし、本能的にプログラムされていたならば、――つまり、「親からの経験」「知恵」から後天的に学ぶ余地がないならば――環境の変化に適応できず、滅んでしまうだろうから。
本能とは鞘のない剣だからだ。収めどころのない剣を持つものは、自らの剣によってわが身を貫かれる。
人間にも同じことが言える。
男は戦い、女は子供を守らなければならない――それを否定しようとも、本能によってプログラムされていることは、さきほどの逆説からも証明されるように事実なのだ――。
男は最終的には鈍感で、力のある生き物にならねばならないが、天才ではなく努力による能力なので、かえって制御が利くわけである。刀を簡単に抜かない武士こそ男の鏡とされたのも、「暴力を備えつつ、振るわない」ことが男性的要件とされたからだ。
戦争時代において女が軽蔑された理由に付け加えるなら、女が軽蔑されたのは鞘の納め方を知らないからではなかろうか――。
男は生まれつき繊細で軟弱、優しい生き物だ。女は野蛮、粗野、鈍感の天才である。
そうしたふにゃふにゃのものを鍛えるところから男、女というものはあるので、最近のようにジェンダーを否定して、男も女も同じように生きろとする教育は、男は腑抜けに、女は下品に育て上げるだけなのである。
男を磨かない男は女に劣るし、女を磨かない女は男に劣るということだ。
2011/05/17 ヘンシウ 仕分け:主義・主張 感想:13 ト ラ ッ ク バ ッ ク: ▲ トラックバックユ・ア・レル